映画アスペクト比の変遷史(動画&全訳)
アスペクト比って何よ?
アスペクト比とは像の幅と高さの比。
4:3とか16:9の比、1.85とか2.35の少数で表記される。少数は2.35:1と書いてもいい。
映像のアスペクト比はどう変遷してきたのか?
最初の映画の話から始めよう。
それはディッキンソンから始まった。最初の映画
アスペクト比を決めたのは、あるひとりの男。名をウィリアム・ケネディー・ディクソン(William Kennedy Dickson)という。トーマス・エジソンの研究所で専属カメラマンとして働いていた人だ。
1890年代初期、イーストマン・コダックは曲がるフィルムの大量生産を始め、トーマス・エジソンはこれをキネトスコープ(Kinetoscope)に使えないものかと考える。キネトスコープは映写の前身の装置のこと。
数年の試行錯誤の末、試作機が完成した。35mmフィルムを採用する際、ディクソンが辿り着いたのが0.95インチ×0.735インチ=4:3(1.33)というアスペクト比だ。
なぜウィリアム・ディクソンは4:3を選んだのか? それは謎だが、この4:3の時代はその後もずっと続くことになる。
1905年、映像特許の会社が「1909年標準」なるものを決めた。内訳は...
35ミリフィルム
エディソンのパーフォレーション(送り穴)
像の高さは送り穴4個分
...これが米国で製作・上映される全映像の標準となる。
トーキー登場♪ アカデミー比
1929年、映画に音声が登場。フィルムにサウンドトラック(音の記憶部分)を確保するため映像の横幅は削られ、アスペクト比は1.19:1に狭まった。
しかし1932年、映画芸術科学アカデミーで投票を行った結果、「横が削られるなら縦のコマとコマの間のスペースを広げればいいじゃん」という判断が下り、アスペクト比は1.37:1に広がる。1.37なら1.33とも互換で使える場合もある。
こうして生まれた1.37が俗に言う「アカデミー比(Academy ratio)」(1932年)だ。映画の標準として1世代、この時代が続く。
ワイドスクリーン戦争
1950年代、映画は激動期を迎える。弟分のテレビが生まれ、業界再編が余儀なくされたのだ。
映像は映画館の4:3で観てきた人がほとんどだったため、テレビも4:3になるのは当然の成り行きだった。
まるで芸能界の新人のように世の注目はテレビが独り占め。映画館から客足は遠のいていくばかりだ。なんとかせねば...家でできない何かを打ち出さねば...。
こうして1952年9月30日、ワイドスクリーン映画が初上映され、その後10年続くワイドスクリーン戦争の火蓋が切って落とされた。
ワイドその1- 戦闘シミュレーション転じてシネラマ
ワイドスクリーンは、フレッド・ウォーラー(Fred Waller)の発明品だ。ウォーラーは第2次世界大戦の爆撃機訓練の戦闘シミュレーター用にカメラ複数、映写機複数を投入してワイドな映像を再現するシステムを考案した人物で、その技術を映画に応用した。
シネラマ(Cinerama)では27mmレンズのカメラ3台で撮った映像をパーフォレーション(送り穴)6個分の高さの35ミリフィルムに記録していく。視野は147度。アスペクト比は2.59となった。
投射機3台、サラウンドサウンドシステム7台でカーブした大型スクリーンに映し出される迫力映像とサウンド。『これがシネラマだ( This is Cinerama)』は大ヒットし、NYCのワーナー劇場で2年上映されるロングランとなる。
誰でも想像がつくと思うけど、カメラを3台も使えば当然問題は起こる。そのひとつが焦点距離で、これがひとつしかない。なのに画面はワイド。あまりにもワイドなため観客席の位置を微妙にずらしてやらないと全員の目線を固定できないほどだった。
シネラマは旅の紹介映像として各地を巡業して稼いだ。普通の映画に採用されたのは10年後の1962年になってからで、作られた映画も2本だけだった(『The Wonderful World of The Brothers Grimm』と『How the West was Won』)。
ワイドその2 - パラマウントは上下マスキング
シネラマはとにかく撮影コストも映画館側の上映コストも高いのが難点。だが、ワイドスクリーン人気の手応えは無視できないレベルだった。
1953年4月にシネラマが初上映されてから8ヶ月後、パラマウントは業界初の「フラット」ワイドスクリーンのスタジオ製作映画『シェーン(Shane)』を公開する。
http://www.gizmodo.jp/2013/07/post_12640.html