お役に立つ動画研究所

日活撮影所で「嵐を呼ぶ男」のメイキング見学が19歳の映像修業の初体験でした。

経済的合理性によって子どもたちを学習させようとすれば、ある段階から、子どもたちは急坂を転げ落ちるように学習意欲を失い、「誰がもっとも無知・無教養でありながら、最高レベルの学歴を手に入れたか」を競うようになる。 「誰がいちばんバカか」を競うようになる。

教育の「目的」が経済的な優位性を確保することに限定されれば、必ず教育「過程」そのもののうちにも効率化や経済合理性や費用対効果や原価率という概念が入り込んでくる。
必ず、入り込んでくる。
そのとき、子どもたちは「最低の学習努力で、最も高値の学歴を手に入れる方法」を競うようになる。
ビジネスマンたちが、最も安いコストで、最も利幅の多い商品を売り込もうとするのと同じことである。
子どもたちは単位であれ、成績であれ、卒業証書であれ、それを手に入れるための「ミニマムの学習努力」を探し始める。
そして、すぐにミニマムが固定値ではなく、同学齢集団の学力の関数であることに気づく。
つまり、「みんな」が毎日自宅学習を5時間勉強するなら、ミニマムは5時間だが、「みんな」が1時間なら、ミニマムもそれに連動するということである。
「みんな」が5時間のときに、相対的優位に立つためには6時間、7時間の自宅学習が求められるが、「みんな」が1時間なら、2時間で優位に立てる。
だから、賢い子どもたちはすぐに周囲の子どもたちの学習意欲を減殺することが競争的環境においては、自己努力よりも圧倒的に費用対効果がよいことに気づく。
まわりの子どもたちの学習意欲を減殺する方法はいくつかあるがもっとも有効なのは、「教育過程は実はそのまま経済活動である」というこの説明をうるさく言い立て、子どもたちが学校教育に対してシニックな態度をもつことをデフォルトにすることである。
学習が経済活動なら、最少の学習努力で最大の利益を上げた子どもが「最も賢い子ども」として称揚されることになる。
3分の2の出席と、60点が必要な教科では、そのミニマムをピンポイントで射貫いた学生は、当該教科で満点を取った学生よりも「優秀」なのである。

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=265897

奇妙な話に聞えるかも知れないが、それが学校教育に市場原理を持ち込んだことの悪魔的なコロラリーなのである。
それが世界でもっとも早く、もっとも劇症的に起きたのが日本である。
かつて世界でもっとも勤勉だった日本の子どもたちは、教育の市場化にともなって、今は世界でもっとも勉強しない子どもたちになった。